『カッコーの巣の上で』と私の不自由な自由 ―― 野生を去勢された先に見つけたもの

心の整理と作品

今、私は一冊の本を読んでいます。ケネス・キージーの『カッコーの巣の上で』。

精神病院という閉ざされた「檻」の中で、規律に押し込められ、弱々しく生きる患者たちの姿。ページをめくるたび、彼らの怯えと無気力が今の私と重なり胸が苦しくなります。

私は双極性障害を患っています。暴言や暴力、自殺未遂を経て、今は薬を飲み、医師から厳格な生活指導を受けています。

「旅行には行かないで」「激しい運動はしないで」「規則正しい生活を」。

かつての私は、やりたいことに熱中して深夜まで作業をしたり、世界中の友人に会いに飛び回ったりしていました。けれど今は、薬の影響で頭はいつもぼーっとしています。刺激を避けるため、心拍数が上がらないように、平坦な毎日をなぞるだけ。

医療の必要性は痛いほど理解しています。けれど、時折どうしても思ってしまうのです。

「医療のせいで、私は私ではなくなってしまったのではないか」

双極性障害という病名がついているけれど、それは見方を変えれば、単なる私の「個性」に過ぎないのではないか。確かに、社会の規律の中では私は「問題児」かもしれません。けれど、もし社会という枠組みから切り離された場所であれば、私は私のままでいられたはずです。

誰の目も届かない野山に放たれ、泣いて、喚いて、感情を爆発させ、最期はクマにでも食べられて死んでいく。

「社会的に正しい患者」として平坦に生かされるより、そんなふうに自分を使い切って死ぬことの方が、私にとっては本当の救いだったのではないか。

そんな極端な想像をしてしまうほど、今の私は「安全」という名の不自由に縛られています。

暴れ方の分からない、去勢された「野生」

物語の中で、規律を笑い飛ばし、堂々と振る舞うマックマーフィー。あるいは映画『ファイト・クラブ』で、文明の檻を破壊していくタイラー・ダーデン

彼らの剥き出しの「生のエネルギー」に、私は強く惹かれます。あんなふうになれたら、どんなにいいだろう。

けれど、いざ「どう派手に暴れたいか」と考えてみると、何も思いつかない自分に愕然とします。

私はあまりにも長く、自分を殺して生きてきました。幼少期は家族からの暴力から生き延びるために。その後は「女性」として、誰かに嫌われないための型に自分をはめるために。

本当は何がしたいのか。その感覚さえ、もう忘れてしまったようです。

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エリート企業戦士ジャックは、ある日、出張先に向かう飛行機内で、石鹸のセールスマンと称するタイラーという男と知り合う。後日、自宅が突然の火事に見舞われ、タイラーの家にころがりこむことになったジャックは、...

「無視する」という、最大の反逆

そんな私の中に眠る「野生」を呼び出してみました。もし、私の中のタイラーが、かつて私を支配し、暴力を振るい続けた「絶対的な存在」である姉の前に立ったとしたら、どうするか。

殴りかかるのか、罵声を浴びせるのか。

想像の中で私が行き着いた答えは、意外なものでした。それは、「何も言わず、ただ無視して背中を向けること」でした。

これまでの私は、背中を向けることすら怖くてたまりませんでした。顔色を伺い、上目遣いで、相手の怒りに触れないよう気配を消す。それが私の唯一の生存戦略だったからです。

けれど、支配を拒絶し、静かにその場を立ち去る自分を想像したとき、私は初めて自分への深い「許し」を感じました。

「私が悪いから殴られるんだ」

ずっと自分に言い聞かせてきたその言葉は、全部、嘘だった。

私は何ひとつ、悪くなかったのです。

もう大丈夫

今の私は、薬で思考が鈍り、自由に世界を旅することもできない不自由な身です。けれど、誰の顔色もうかがわず、静かに背中を向けるという「精神的な野生」を、私は確かに取り戻しました。

無理に暴れる必要も、誰かを壊す必要もありません。

「もう大丈夫。」

何も怖がるものはない。自分を責める必要もない。

『カッコーの巣の上で』の患者たちが、自由な風に触れて自らの足で立ち上がろうとしたように。私もまた、去勢されたような日々の中で、誰にも奪われない「私自身の真実」を見つけ出しました。

この静かな強さを抱きしめて、今日をやり過ごしていこうと思います。

kotokoです。双極性障害歴5年目。
適切な治療で平穏を取り戻しつつあります。
「生まれてこなければよかった」という本音を抱えながら、それでも今日をやり過ごしつつ、治療のリアルを綴ります。
好きなものは映画と漫画(とネコ)。
どこかで同じ空を見上げている仲間の力になれば幸いです。
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