双極性障害になると「この苦しみは永遠に続くのではないか」という絶望に支配されます。
激しい「気分の波」を何年も繰り返し、正気でい続けることは容易ではありません。自殺率が他の精神疾患と比べて高いことも、その過酷さの証拠でしょう。
前編でも書いたように、私の心にはずっとある問いが取り憑いています。
それは「人生に意味はあるのか」ということ。
物語の中のエルヴィン・スミスのように、一生懸命に生き、その生きた意味を託せる相手は、私にはいないからです。
安楽死計画への共感
そんな中で進撃の巨人を見返していた時、私はある人物に強く共感しました。ジーク・イェーガーです。
彼の「生まれてこないことこそが救いである」という思想は、私にとってあまりにも現実的で、切実なものでした。
生まれてしまったから、実家では暴力に怯え、学校ではいじめられた。会社で嫌味を言われ、病気で生活は不安定になった。生まれてこなければ、こんな不幸を感じなくて済んだのに。
「生まれてこないことこそが幸せだ」という言葉を否定する人がいるなら、その人はさぞかし安全で、温かい場所で生きてきたのだろうとさえ思ってしまいます。
ただのキャッチボール
人類の生を否定し、救済という名の絶滅を目論んだジークですが、物語の終盤である記憶を思い起こします。
それは、父のように慕っていたクサヴァーさんと過ごした、何気ないキャッチボールの時間でした。
「俺はキャッチボールをするためだけに生まれてきたのかもな……」
「あなたとキャッチボールするためなら、また生まれてもいいかもなって」
壮大な計画を立て、世界を動かそうとした彼が、死の直前に辿り着いたのは「人類を救う意味」などではなく、ただボールを投げるだけの、誰のためでもない時間でした。
私にとってのキャッチボール
私にも、そんな瞬間がありました。
子どもの頃、一匹の猫を飼っていました。トイレにまでついてくるほど寂しがり屋で、愛くるしい子でした。
当時の私は、「この子に出会うために、私は生まれてきたのかもしれない」と本気で思っていました。
その子はもう虹の橋を渡ってしまったけれど、あの子のふわふわした毛の感触や、まんまるな顔を思い出すたび、私の胸の奥は今も温かくなります。
人生に意味はない。死んだら誰にも引き継がれない。その事実は変わりません。
けれど、あの子と過ごした時間があるだけで、私が生まれてきてしまったことへの「帳尻」は、ほんの少しだけ合っているような気がするのです。
答えのない戦いの、その先へ
私にも、「生まれてきて、まぁ、よかったのかな」と思える記憶がありました。
もちろん、これで劇的に希死念慮が消えるわけではありません。ジークもまた、最期まで「安楽死計画が間違っていた」とは言いませんでした。
けれど、あの子と過ごした十数年間、私の中に「死」という選択肢はありませんでした。あの子のそばにいる、ただそれだけのことが、私を生かしてくれていたからです。
今、その思い出は、答えの出ない戦いを続ける私を、静かに肯定してくれています。


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