双極性障害を抱えて生きていると、世界がひどく残酷な場所に思えることがあります。
私は、決して「人に優しい人間」ではありません。
満員電車では無意識に人を押し返してしまうし、ランチの席取り合戦には容赦なく参戦します。「体力があって、お金があって、美しくて。そんな『強者』だからこそ、優しさを持てるんだ」ずっとそう思ってきました。
駅のホームで私を突き飛ばしていったあの男に、慈愛の心なんてあるはずがない。彼もまた、奪うか奪われるかの世界で、必死に生き延びようとしている「余裕のない一人」なのだと。
進撃の巨人「ケニー・アッカーマン」が求めた景色
優しさの話になると、私は『進撃の巨人』に登場するケニーという男を思い出します。作中で最強の一角として描かれる彼ですが、かつて自分を遥かに凌ぐ「絶対的強者」に出会うシーンがあります。
それは、始祖の巨人の力を宿す王、ウーリ・レイスとの出会いです。ウーリは圧倒的な力でケニーを制圧しながらも、自分を殺そうとしたケニーに対して、泥にまみれて頭を下げ、謝罪したのです。
暴力こそが世界の理(ことわり)だと信じてきたケニーは、衝撃を受けます。そして、こう確信します。
「ウーリがこんなにも慈愛に満ちているのは、彼が最強の力(始祖の巨人)を持っているからだ」と。
「ウーリ、あんたが優しいのは始祖の力があるからだろ? 俺もその力が手に入れば、あんたみたいになれるのか?」
ケニーは、力さえ手に入れば、自分のようなクズでもウーリが見ている「慈愛に満ちた穏やかな景色」が見えるようになると信じました。
やっぱり、力こそが慈愛の源なんだ。私の考えていたことは間違いじゃなかったんだ――。
しかし、物語の終盤、死を前にしたケニーはあることに気づきます。ウーリの慈愛は、決して巨人の力によるものではなかったのだと。
優しさの対価を求めない、夫という存在
ケニーがウーリに見た「理解不能な優しさ」を、私は夫の中に時々見ることがあります。
彼は、別に始祖の力なんて持っていません。
特別なお金持ちでもなければ、最近はぽっこり出てきたお腹を気にしているような、ごく平凡な人です。
以前、私が彼に「病気で迷惑ばかりかけて、優しさの対価(お返し)を何も払えない」と言ったとき、彼は「別にそんなものいらない」と言いました。
私はずっと、彼が心に余裕がある「強者」だから優しくしてくれるのだと思っていました。でも、そうではないことに気づいたのです。
彼は、余裕があるから優しくしたいんじゃない。ただ、「そうせずにはいられなかった」というだけ。損得勘定でも、力による余裕でもなく、ただひたすらに、一人の人間を慈しむ道を選んでいる。
漫画の言葉を借りるなら、彼は「愛という名の奴隷」になっているのだと思います。
結論:何かの奴隷として生きていく
「人は何かの奴隷にならないと、やっていけなかった」
ケニーは最期にそう悟りました。弱肉強食の世界で、奪い合う奴隷になるか。それとも、損得抜きで誰かを大切にしたいと願う、愛の奴隷になるか。
私には、まだ誰かに分け与えるような「力」も「余裕」もありません。
けれど、何の見返りも求めず、自ら「愛の奴隷」でいてくれる夫の優しさを、今はただ、真っ直ぐに信じてみようと思います。
その温もりに触れている間だけは、奪い合う世界から一歩降りて、静かに息ができるような気がするのです。


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